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追悼文掲載
T15/3/29 U15/5/31 V追悼文
T15年3月29日
安岡正明様がご逝去された。余りにも急なことで、3/25 東京の自宅まで、早速駆けつけた。よい、お顔であつた。葬儀は、3/28 高野山東京別院で、しめやかに行われた。供花・弔電の中には、「塩爺」大臣のお名前もあった。私の会だけ、やはり、供花・弔電を捧げた。その中で、弔辞を3人の方が拝読したが、3人とも安岡正明様の著書「われはなんぴとぞ」の含蓄深い、言葉の数々を残されていると功績を称えられておりました。わたくしごとですが、この本のあとがきには、私のことを信頼している旨のことを数行にわたって、述べてあり、嬉しく思いました。どうして高野山で行われたかというと、安岡正篤先生が、高野山で葬儀を行ったからであり、親子二代にわたって、葬儀が行われたことになる。もっといえば、安岡正篤先生は、養子で安岡を名乗っていたが、旧姓、堀田姓であり、実兄が、高野山の最高峰の管長だったことから、このご縁は繋がっているのです。わたしとしては、モット長く生きていただいて、哲学を授与してもらいたかった。という気持ちでいっぱいです。日ごろ教えて頂いていた言葉をここにご披露します。
「逝くものは、かくのごときか、昼夜を舎(お)かず」
U15年5月31日
その後、郷学研修所の毎月発行の雑誌に「故安岡正明氏を偲んで」という、追悼文を掲載したいとのことで、編集長から、依頼がありました。これもご縁であるということから、早速、追悼文を書き上げ、ネットで送付したところ、49日過ぎてからの雑誌に乗せることになりました。従って、この頁にも7月1日以降に発表いたします。でも、いまでも惜しい人がなくなったと思います。残念です。
| V 追悼文を掲載///平成15年7月19日 時習会・松本時習会 代表 増 田 勇 治 |
| 安岡正明先生におくる追悼文を掲載はこの頁下に平成15年7月19日 安岡(正明)会長を偲んで その右側がhp作成者です。支店長会のあとの懇親会場での写真です。 ![]() |
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追悼文を掲載///平成15年7月19日 「無中有夢」とは、浅学の私が考えるのに、何も求めず、ただ、ひたすらにその中に溶けこめば、その中から、夢・新しい願望が目覚めるのだ。といっているのかと思います。このことばは、以前、安岡会長からいわれて今でも私の頭にこびりついている「とらわれず、追い掛け回せ」と同じ意味あいのものだと感じます。 そうそう、書斎といえば、安岡会長が銀行を退職してまもなく、狭いけど小さな書斎、自分の書斎ができたといって喜んでいたことがありました。その書斎は、応接セットと仏壇と数々の書籍があり、向かい合って座ると嬉しそうに話し掛けてくれたのを思い出します。これが、上の写真です。右下には籐のいすの背もたれが見えています。 私は、安岡正明先生の唯一の弟子とかってに思い、「安岡人間学」勉強のため、月一回の訪問を自宅に詣でておりました。訪問の際には、先生が、応接室に見える間に、仏壇にお線香をたむけさせていただきました。そこには、安岡正篤先生を始め、安岡家の仏壇であったのです。わたしは、ここで、どうして、お線香を上げているのか、理解を超えており、わたしのような一介の元銀行員が、安岡正篤先生の仏壇の前にいるのか、不思議でしたが、人生のご縁をつくづく感じておりました。 この度、邑心文庫さんより、安岡正明様の追悼文をという「ご縁」をいただき、本稿を書かせていただきました。 ほぼ、同時期に大株主の朝倉万幸氏と親しかった私は、県都長野に「安岡正篤先生の勉強会を開催しよう」と一念発起して、一緒にやろうと決意しました。この朝倉様は、のち、安岡正篤生誕100年の際、日本刀を寄贈された方です、そうです。正面の壇上に飾られたあの刀です。 告別式では、銀行頭取ほか大蔵省の方等が弔辞を奉読されましたが、そのお三人とも「我何人」を発刊したとの味のあるお言葉がありました。この本の基本となるものは、前述の「安岡正篤の生涯」の完成と同時に、図らずも私が、「随想」として別冊で作成し、同時に配布したものを、このたび、邑心文庫さんのお力により、加除修正装丁等を施し、完成した本として、世にでたものであります。 そうそう、「我何人」の中に「狂魂」という一項目がありますが、この項は特に読む人を酔わせます。一度、読んで見てください。要旨は、「何かをなせる人は、それなりの魂を持っている人だ」、そして、「安岡正明先生は、私は、ただの人だ」と常にいっていたことを思い出します。 今考えるとそれ自体の意味も考えられず、私は、「ミスター『子路』」とは一体、なんぞや、と思っていて、そのときには、何の気にも留めませんでした。 ある日のことです。いつものように安岡会長宅からの帰り道、時間があったので、大きな書店に入りました。広い店内をうろうろと時間の経つままに書物あさりをしておりました。 特別に意識しない状態で、あるコーナーに立ち止まりました。私の分野とはあまり関係ないコーナーでしたが、ふと、「新潮文庫」が眼に入りました。それは、「李陵・山月記」(中島 敦著)という本でした。手にとってみて 閑話休題 その後、機会があるごとに「子路」を例題に出して、いろいろと意見を交わしてきました。そうだ、「子路」のことについてまだ、安岡会長に報告してないことがあります。 そして、ある日、自分の別のホームページ(オヤヂなページ)を持つことになり、「子路」という項目を設定し、順次、意見を発表してきております。このようなことから、「子路」のページは、これからも安岡会長からの戴きも これから、安岡人間学、禅問答までと、進みたかったのに、お亡くなりになってとても残念です。交流が深かった分だけ、もっともっと書きたいことはたくさんありますが、この辺で、失礼しようかと思います。安岡会長には、私 |
「逝くものは斯くのごときか、昼夜を舎かず」
15年5月31日
その後、郷学研修所の毎月発行の雑誌に「故安岡正明氏を偲んで」という、
追悼文を掲載したいとのことで、編集長から、依頼がありました。
これもご縁であるということから、早速、追悼文を書き上げ、ネットで送付した
ところ、49日過ぎてからの雑誌に乗せることになりました。
従って、この頁にも7月1日以降に発表いたします。
でも、いまでも惜しい人がなくなったと思います。残念です。
15年3月29日
安岡正明様がご逝去された。余りにも急なことで、3/25 東京の自宅まで、
早速駆けつけた。よい、お顔であつた。
葬儀は、3/28 高野山東京別院で、しめやかに行われた。供花・弔電の中には、
「塩爺」大臣のお名前もあった。私の会だけ、やはり、供花・弔電を捧げた。
その中で、弔辞を3人の方が拝読したが、3人とも安岡正明様の著書「われはなんぴとぞ」
の含蓄深い、言葉の数々を残されていると功績を称えられておりました。
わたくしごとですが、この本のあとがきには、私のことを信頼している旨のことを
数行にわたって、述べてあり、嬉しく思いました。
どうして高野山東京別院で行われたかというと、安岡正篤先生が、高野山で葬儀を行ったからであり、親子二代に
わたって、葬儀が行われたことになる。もっといえば、安岡正篤先生は、養子で
安岡を名乗っていたが、旧姓、堀田姓であり、その実兄が、高野山の最高峰の管長だったことから、このご縁は
繋がっているのです。
わたしとしては、モット長く生きていただいて、哲学を授与してもらいたかった。
という気持ちでいっぱいです。
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今、私は安岡人間学を学んでいてよかったと思っている。 何故なら、このホームページを見てくれた方が、私の14/4/6の誕生日にアクセスしてくれて嬉しかったということは、安岡正篤の世界に記載してあるとおりである。 この他にもいままで、勉強していたからこそ、という数々の人生のことどもがある。これも其の一つである。 そこで、私は、考えなしに、「人生は…・とらわれずに追い掛け回せ」だぜ、というと彼から、すかさず、「とらわれてしまって、追い掛け回されている。」という、返事が返ってきた。親子のこんな簡潔な応答だけだったが、お互いになんとなく納得したひと時だった。 しかし、私、あとで考えてみると「とらわれずに追い掛け回せ」は、私の言葉ではなく、安岡正明先生が日ごろから言っていた一言であった。 |
平成15年10月21日
お彼岸に安岡家にお線香をたむけにいってきました。
奥様と息子さんご夫婦と安岡正明先生の思い出話をしてきました。
主のいない家は、寂しいものでした。安岡正明先生宅の書斎を撮らせて頂きました。
このお仏壇には、安岡正篤先生の位牌もあり、わたしは、何というご縁かと自分の運命を強く、感じました
本当に恐ろしく有難いことだとつくづく感じ入りました。
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