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河井継之助
河井継之助を読んだ感想 21年1月1日
河井継之助を読んだ大きな理由は、この方は、当時の「陽明学」を修めていたことが、きっかけとなっている。当時では、儒学はじめ、いろいろな漢学を勉強するのが、識者だったのであるが、「陽明学」は、特に行動する学問として、重要であり、この本の中でも「河井継之助は大塩平八郎の乱(陽明学者)」にも触れており、その点に焦点を当てて、読みたいという感情が起こっていたのである。
「河井継之助という登場人物を通して、司馬遼太郎の考える「陽明学」を検証してみたいという、思いもあって、この「峠」の中の「陽明学」の記述を抜書きしたいと思った。
次に掲げる。
p14
継之助が18の年、初秋の良く晴れた朝であったという。真っ青な天に向かって、中国古代の儒者などがやる天を祭る儀式をした。父は、「天を祭る儀式」をしたのではなく、あとで想像するに王陽明を祭っていたらしい。」、
王陽明とは、明の学者である。若いころは、放逸無頼で、任侠道に溺れたり、武術に熱中しすぎたり、詩に惑溺ワクデキしたり、神仙・仏法に熱中したが、結局は、儒教に、
行き着き、独自の学派を開いた。知識は、行動と一つでなければならないとする(知行合一)、一見、激越な思想で、陽明自身、官吏、政治家、軍人という、遍歴の中で、身をもってその思想を体験した。継之助は、早くから、王陽明に敬慕して、このときから、発奮して、陽明の後をたどろうとしたのではないかと誓いであったかもしれない。
p17
継之助は真冬の中、江戸に経った。城下の人たちは、何故、春に出発しないのかを不審に思っていた。彼は、雪の中を歩いていた。わざわざ、このような日に行くのは、自分は狂人だと認めていた。陽明学とは、人を狂人にする。常に人を行動へと駆り立てる。この思想にあっては、常に自分の主題を燃やし続けていなければならない。この人間の世で、自分の命をどう使用するか、それを考えるのが、「陽明学」とは陽明学的思考法であり、考えにたどり着けば、それを常に燃やし続け、常に行動し、世の危険を見れば、断固として行動しなければならないという、常に激しい、電磁制を帯びた恐るべき思想あった。
例として、陽明学の先輩として、大塩平八郎がいる。「大塩の乱」という。大塩平八郎は、継之助の十歳のころに死んだ。天保七年、西日本はの不作のために米価が高くなり、町に餓死者が、満ちた。大阪天満の奉行所与力である大潮は、何度か、その救済策をお願いが、黙殺された。そのため、ついに、幕府の役人なのに、兵を挙げて、大阪城を攻めたが、敗れ、自殺した。継之助は、この大塩が書いた「洗心洞さつ記」を愛読していた。このようなことから、「継之助は自分がやる」という気持ちがあり、自分以外に人の陽明学を救えぬという、孤独さと悲壮感がこの陽明学的思考にとりつかれた者の特徴であった。自分の命を使える方法と場所を自分が発見しなくてはならない。このようなことを常に考えているので、継之助は「いわば、私は、狂人のようなものだ」と思っていたし、今回の裏日本から、江戸までは、宿場の数にして、36次あり、雪のない季節で7日は掛かっているからだ。
p23
この男の知的宗旨である陽明学の学癖のせいか、常に他人を無視し、自分の心のみを対話に選ぶ。例えば、陽明学にあつては、山中の賊は破りやすく、心中の賊は破りがたしという。継之助は、山中で賊に会っても賊の出現によって、反応するわが動きのみに注視し、ついで、その心の命ずるところに耳を傾け、即座にその命令に従い、身を行動に移す。この時の賊とは、「難路」であろう。
p69
愚考いたしますに人というものが世にあるうちにもっとも大切なことは、「出処進退」という四つです。そのうち、「進むと出(い)ずる」は上役の助けがいるが、「居ると退く」には、人の力を借りなくても良い。自らが決すべきことである。という。
p106
いったい、河井は平素、お前に何を教えている。−何も教えてくれません。そんなことはあるまい、あの男は陽明学の徒(やから)だが、それについて、何か行っているだろう。心という言葉を使います。「万物万象は我に帰す」。それが陽明学だ。儒学の中には、陽明学があるが、そのほかには、朱子学がある。江戸時代の学者の99%が朱子学であった。朱子学が幕府の漢学であり、これをやらなければ、任官できない。陽明学は、幕府にとって、もっとも嫌悪しなければならない「異学」であった。
例えば朱子学は、星・月・山・川・人間など、天地万物は客観的みても存在している。一切のものは、実際に存在している。という。陽明学は、そうは見ない。天地万物のものは、人間であるオノレが、そのように目で見て、心に反応しているからそのように存在している。という。人間の目と心があればこそ天地万物が、存在するのだということである。つまり、陽明学は、「天地万物は、主観的存在」である。いわば、「唯心的認識論(ゆいしんてき)」といっていいのではないか。
要するに人間が天地万物なるものを認識しているのは、人間の心には、天地万物と霊犀(れいさい)と相通ずる感応力ものがあるからだという。いやいや、その天地万象も人間の心も二つのものではない。天地万象も人間の心も「同体である」という。「だから、心を常に曇らさずに保っておくと、物事が、よく見える。学問とは何か、心を澄ませ感応力」を鋭敏にすることである。これが、継之助のいう陽明学であった。現実に人間には、「賢愚」があるがと質問すると王陽明は、「人間には、心のほかに気質がある。賢愚は、その気質によるものだ。」といつた。
p108
その気質は、不正な気質と正しき気質がある。気質が正しからざれば、物事にとらわれ、俗欲・物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、物事が、よく見えなくなる。つまり、愚者の心になる。:継之助によれば、学問の道は、その気質の陶冶にあり、知識の収集にあるわけではない。気質が、常に磨かれていれば、心は、明鏡のごとく曇らず、物事がありありと見える。「つまり、その明鏡の状態が、孟子の言う、良知」ということだ。しかし、陽明学では、さらに一歩進めて、良く知ることを知ることだけに留めず、実行を伴わせる。激しい、行動主義が、裏打ちになっている。
継之助が走ったのは、学理ではしったのですか。このようなとき、王陽明であっても走ると思います。走ることは、儒教の根本義である「仁」というものである。儒教では、惻隠(そくいん)の情というものを重く見る。道を歩いていて、見知らぬ子供が川に落ちた。どんな悪人でもそんな場所に通り合わせたなら、捨てておかず、何らかの手段で助けようとする。人間が生まれ名からに持っているいたわしく感ずる心ー惻隠の情ーこそ、仁の原始形態ではあると「孟子」も説いている。
p117
:継之助は、儒教人であるから、英雄という言葉が好きだ。しかし、儒教の中でも王陽明学派は、そうゆう時流つかんで、それに乗り継ぐ、種類の英雄を尊ばない。
つまり、英雄や風潮を尊ばない。
p129
継之助は、まったく、色というものは、難物だな。自分は、あくまで、自分の行動を自分の意思で、決定していく教法の信徒であるのに、性欲だけは、どうにもならない。
こっけいだな、と思う。有名な「孔子でさえ、どうにもならなかった」、だから、孔子は、七歳にして男女同席せず、また、自分は、色を好むほどに学問や道を好むものを見たことがない。−と。
p211「一隅を照らす者・これ、国宝」ー比叡山を開いて、天台宗を創設した伝教大師の言葉である。
p334
継之助の学んだ儒教というものは、結局は政治と社会を改造しようとする思想だった。
p335
継之助は、大塩平八郎に賛成しない。その粗末な頭脳をひそかに憐れんでいる。しかし、ことをなそうとすれば、一面の害を恐れてはいけないという考えのいちれいだと思えばよい。
p358
陽明学の基本思想は、今日があることは、翌日のためにござります。その翌が終わりましたら、さらに、その翌日があります。生は事を行うための道具にすぎませぬ。
前編の結論として、継之助は、「なにごとかをするということは、結局はなにかに害をあたえるということだ」と結論付けた。
ここまで、陽明学という言葉を拾ってきたら、前編では、継之助を読者にすばやく、理解させるために、都合の良いところを陽明学から、引用している様子である。でも、少し、硬い文章だったが、陽明学を勉強しなくても、この本を読み・知ることにより、いろいろなところで、含蓄の深いことに出会うことだろうと感じた。後半の陽明学の引用は、少なくなってきている。
この陽明学の学風は、現在、誰でも胸に当たることが多いがこのことも人間の生きざま、そのもので、過去も現在も、きっと未来もそうは、変わらないことだろうと感じる。
後編
p57
福沢諭吉は、河井という男は妙だ。と、しきりに言った。書物というのは、わずかの数量しか読まない。王陽明全集と宋民二代の語録、明清二代の奏議ぐらいのものである。
p98
尊王ということがである。尊王という概念は、今は薩長が独占したが、これは、朱子学や陽明学が、ずっと奉じて来た思想なのである。そこでは、尊王賤覇(せんば)という。王を尊び、覇者をいやしむ。
p151
中国におけるあらゆる事例は、政治家を優先せしめている。もっとも継之助が敬慕する王陽明のごとく、優れた政治家であり、文官であり、しかも優れた軍事的才能をかねており、戦えば必ず勝つという人物がいればなんてことはない。
p225
それどころか、継之助が古今の人物の中で誰にも増して、敬慕していたのは、王陽明であった。王陽明は元来が、文史であり、一国の首相であった。必要があれば、国軍をひきい、各地に転戦し、常に勝ち、当時のいかなる武将よりもすぐれた将軍の能力を発揮した。
p279
「よろしく公論を百年の後に俟って、玉砕するのみ」全員戦死することによって、その正義がどこにあるのか、後世にしらしめたいのだという。ーーあれは、継之助の陽明学好みのことだ。とひそかに陰口をたたくものもいた。
陽明の徒は万策尽きたときに、すべての方策をすててその精神を詩化しようとした。
p344
その典型を越後藩非門閥家老に河井継之助に求めたものは、書き終えてからも、間違いなかったとひそかに自負している。
かれは、行動的、儒教というべき、陽明学の徒であった。陽明学というのは、その行者たる者は、自分の生命を一個の道具として、扱わなければならない。いかに世を救うかということだけが、この学徒の唯一の人生の目標である。このために世を救う道を探さなくてはならない。学問の目的は、すべて、そこにへ集中される。
終了